「動物」と暮らすということ

以前「伝言」というタイトルで「動物」の話を書きました。動物といえば人間にとっては大概、ペットちゃんの話になりますよね。人とペットの出会いにはとても強いご縁があるのも確かです。生きていてもそうですが、動物は死を通してまでをもとても重要なメッセージを遺す場合があるという話を少しだけしましたが、大体の人間は、その「伝言」を見落としたり誤解することのほうが多い気がします。

特にペットの話では、飼い主の人間都合で、その「死」をただの”悲劇”として捉えてしまい、感傷的なドラマに仕上がってしまって、人間の感動の材料のように扱われてしまう場合も多いように感じます。もちろんそういう気持ちも確かに愛着としての愛情でもありますし、別れの辛さや寂しさもあるのは事実ですので、なかなか「死」を素直に受け取るのは人間は苦手なのだと感じます。

限りある時間を共有した生命に感謝を送るような心でありたいものです。それは私もわかります。わかってはいても、現実は心は追いつかないものですよね。しかしなぜ人間は自分都合で感傷的に「死」を捉えるのか?その大きな原因のひとつを考えると、ひとつのことに行き着きます。

それは『人間はペットである動物を下に見ている』からなのだと感じます。これがそもそもの誤解なのです。その誤解は他の動物や植物やその他にも、そして人間同士でも同じ意味を持つと思いますし、そもそものそんな誤った認識がこの世界を顕著に顕している気もします。詳しくはいつか機会があったなら話してみたい、人間の根本に触れる内容でもあるので、またいつか話すかもしれません。

ですが、こういったペットの伝言に関して感じるのは、いかに人間がまだ自己愛や利己愛の次元に在るのかということです。死後も飼い主(家族)の元でサポートをしていた動物が、最後には失望して還っていくこともあります。とても残念なことです。

そんな人間と比べるのなら、その存在は「愛」しかない様な犬や猫ちゃんなので、どうか自己愛の投影としての愛玩だけではなく、また表面上は愛護精神や平和思想を装いながらも自分の内の隠された利己愛を遂げる為の都合のいいツールに利用などしないで、話をして側にいて、共にこの世界で生きるかけがえのない時間を大切にしてほしいと願います。

人間の都合で捨てられた動物が必死で飼い主(家族)を心配して捜して求めてくる個体もいますし、人間にひどいことをされたり、人間の意識や能力の低さに対し人間に呆れ、人間に失望している個体も多いです。

そのような多くの話を実は私も知っています。だけれど、いまはそれらを話す気はないというか、話してもきっと多くの人間に理解されないのは良いとしても、誤解されてもっとひどいことになることが一番良くないので、中途半端にはこのようなお話はしないようにしています。

それでも確かに人間と共に生きることを選んだ動物や植物や鉱物などというのは、そのように「側で見守ること」や「与えることのみ」という献身だけを選んで、ただただ一緒にいたいという愛で生まれて来ている気もします。

そのような個体は、何度も転生して会いに来ている場合が多いですので、新たに飼ったペットが実は以前亡くなって別れたペットがまた姿を変えて会いにきていることが多いものです。

動物でも、植物や鉱物なんかもいろいろありますが、思い遣りや真心や祈りのような人間の中にもあるなにかはいつでも伝心しているのだと思いますが、そんな想念や心や意思や伝言ではなく、真相だったり事実などで、知ってしまったことでも言葉にするのはよそうと思ったり、伝える事を見送ることも多いです。または、時期を待っていることもあります。

いくら真実だからといっても、受け取る側は空蟬の人間ですから、知ることによって、事実を受け止められずに、かえって良くない方向へ動いてしまうことも多いので、それがわかる時は控えることにしています。その方の生きている世界観や理解力などによって見定め必要な範囲のみで内容を留めることも多いです。

それを言うと、本当に恐ろしいこともこの人間の社会には多いものです。今回は動物の話ですが、よく動物虐待などの話もあったり個人でも動物愛護や支援なども盛んな現代ですが、その愛情を少しだけ自分たちの世界にも冷静に向けてみたならどうでしょう。

動物虐待よりも、人間同士のほうがもっともっと残酷で愚かなことがまかり通っていることにも気がつくのではないかとも思います。

この世界ではそれは悪だったり悲劇だったりすることが多いですが、人間がこの自由意志の世界で、転ぶのも汚れるのもまた各々、その者には必要で大切なかけがえのない経験ですから、闇もあってこその現世の自由なのですよね。

そういった人間のアレコレもまたきっと、どこかで、なにかの、誰かの必要な事柄なのだと思ったりもして、そんなことを思うと、もうこの世界に善悪という概念は無いに等しく思えて、なにも出来なくなってしまいそうな自分もたまにいるので、そんな時は、ただただ草花と風を浴びて戯れたり、いかにも世俗的なすこしエッチなことでも考えたりするようにしています(笑)

私もまたせっかくこの世界で生きているのですから、浮世を味わい尽くして、様々なことを経験したいですからね。それもこれもあれもこれもで最後にまとめるのなら、事柄もそこにある意味でさえもそれは千差万別で、森羅万象すべて、この世界は愛でできている。・・・なんて言いたいものですね、

そのように現代は特に、生きる事に人間は「意味」を欲しがっている時代にも感じるのですけれど、だからきっと知りたがるのもあるのでしょうし、そんな純粋な知りたがりもまたとても生きづらい時代にも感じます。

どんな職業がいいかとか、どうやったらたくさんお金を稼げるかとか、恋人がほしい、結婚がしたい、子供がいるあの人がうらやましいとか、なにかと自分以外に「意味」を欲する人間の多い世の中ですが、そもそもそんなこと知らなくていい程に「生きること自体がきっと意味であり目的」のように思っているくらいがちょうどいい気がします。何者でもなく、笑い喜び、悲しみ迷い、そんな生きることの「答え」なんて「わからなくてもきっといいこと」なんです。

命はテストや試験じゃないのですから正解も他者の評価などなくて、知りたがらずに、すべては自分で感じて覚えていく感じで、辛さも嬉しさもただ、限られた生きる時間を大切に歩んで、いつか自分だけの経験を土産にどこかへ還っていくものなのでしょうね。だったら現在を共にするすべての他人や存在達と生きること自体を敬い合いながら、分かち合うというのが、私たちの生き方なのかもしれません。

長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださった方がもしもいらっしゃったのなら、ありがとうございます。このようなある意味で「目に見えない話」が他にも沢山あるのです。そのような事柄をもっと別の形で、なにか文章や作品などで表せるように模索していきたいと思っています。

20180519 15:15(20180926再編)

あわせて読みたい
「伝言」 人生の中で何度かご縁をいただいて、この「役」をやらせていただく機会があります。簡単に言うと「伝言役」とでも言いましょうか。 正確に言うと伝言役の伝言役。つまり...
あわせて読みたい
「厄」とはなにか(祈りを忘れた時代に) ——— 今回のお話は、以前、ある方から厄年についてのご質問があったので、私自身の体験だけでなく、他者からお教えいただいた知識の中のひとつを、文章にしてみたもので...