
——— 今回のお話は、以前、ある方から厄年についてのご質問があったので、私自身の体験だけでなく、他者からお教えいただいた知識の中のひとつを、文章にしてみたものです。質問の意図や質問者の性質などによって表し方も言葉や内容も変わるのは確かですが、一般的な範囲でまとめたつもりなので、これに関しては掲載してもよいかなと思いました。
その地域に暮らす人の人生は、その土地の神様がお護りくださっています。古くは産土神(ウブスナガミ)、現代では氏神(ウジガミ)と言われることが一般的です。ご縁あって、その氏神様の管轄の土地の上で生きる時、やはり先ず以てご挨拶し、土地をお借りする事をお願いし、ご縁に感謝することが、人の道の基本ではあります。
その上で、親を頼るように会いに行ったり、お願いをしたり、時にはすがったり、筋さえ通せば、神様は子を迎えるように受け入れて、それがその人の幸せになるのならば聞き届けてくださいます。
しかし、感謝できる心を自身で育むことが、聞き届けてもらえる条件です。とかく人は災難を忌み嫌い、それをも他者や環境や境遇や、本来、自分よりも位の高い自然物や動植物、時には異次元のものまでをも責めてしまいます。
人間の機能や能力や思考をはじめ感覚としても、人間世界からはわからないことや見えないことが多いですが、自分が何が苦しいのか、それはどうしてなのか、すべてには必ず理があり、難を通して己を知る事が人生の道しるべに成り得るものなのです。
幸せとは、難が無い事ではなく、難があるその最中にいかに自分自身を信じ、自分自身の精神の今を直視し、自分自身を光へ導いてあげられることと思います。また、時に敵の姿で、時に味方の姿で、その手伝いをしてくれるのが友です。恋人や夫婦もまた、そのように鏡となり対と成り、ともに歩み、己を“知り合う”もの同士でもあります。
そういう気持ちで、もしも素直に思えるのなら、まずは氏神様に参拝してみてください。神様は素直な心の者が好きです。ご神体が鏡であるように、全ては自身の心が反映され、神様もその心に同等のふさわしいお答えを出してくださいます。
各々、人の性質や段階によって周波数の領域の違いように、神社にご縁が深い方もいれば、お寺のほうが縁がある方もそれぞれなのですが、神社やお寺(寺はとくに)は、参拝者の数だけ、良い念(軽い)も悪い念(重い)も、うずまいています。
昨今ブームにもなったパワースポットというのはエネルギーの通う、また集う(溜まる)場所という意味では、確かに嘘というわけではありませんが、そこにあるパワーというエネルギーに対しての現代人の認識や概念については真理や摂理からは遥かに異なった解釈ですので、俗物的な意識での謂わば「御利益信仰」のような気持ちならば、参拝はかえって避けたほうが自身のためかもしれません。
お願いごとや気を晴らす目的でせっかく参拝しても、その場所に誰かが置いて穢して行った利己的な想いや負のパワーがうずまいている場合も多いため、これもまたその都度の自身に相応しい他人の念や陰の波動などがまとわりついて帰ってくることも多いので、帰宅してなんとなく変な感じだったら、ひとつまみの天然塩をお水で飲んでください。
厄年のことで言うならば、厄年は簡単に言えば、ホルモンバランスが急激に変わる体と心の節目です。体調を崩すのも、精神状態が崩れるのも、連動しています。しかし、永遠ではありません。ホルモンバランスを整える木綿豆腐などをしっかり食べるのも、一つの手です。それくらい気軽に受け止めて、よくなるものであることを脳に信じさせることが結構重要です。
そしてこれは厄年に限りませんが、人の遺伝子には80億以上の要素、要は数多くの性格をもった人格があります。誰もが同じで、最悪のものからとても最良とも言えるほど愛らしいものまで、謂わばアダムとイブから両親までの個性ある遺伝子が一人の人間の中に共存して在ります。感情とは遺伝です。遺伝とは強力であって、ほぼ大体の人間は遺伝のままに生き死んで行きます。
使う感情によって、どの遺伝によるパーソナリティがメインに自分に出てくるかが異なります。感情に負けてしまえば悪い遺伝も出てくるでしょう。そうして遺伝のままに生きて、とかく人は自身の境遇を嘆いたり恨んだりします。そして、御利益だけを欲し自分勝手に願ったり、苦しみや恨みばかりを神に祈って、不幸になる自分をより実現させてしまうのです。
自分自身の努力でしかありません。遺伝を上回るように生きた者だけが、運命さえも変えることができます。大変ですが簡単です。己に負けずに、そして朗らかに生きれるかどうか。「遺伝を上回る」というのはいつも今の自分自身の「感情を上回る」ということです。
だからこそ、この世は落ちて行くも上がって行くも、本当に「自由」な世界です。遺伝のままに運命を生きるのか、自分自身を作り上げて現在も未来も人生も自分で選びつかみ取って生きるのか。なにもかも自分次第の「自由」が誕生時から人間には許されています。
また、厄年と言えば、結婚や特に女性は出産に適した時です。マイナスからのスタートを切り、愛情で支え合ってたくさんの困難を乗り越えていく素晴らしさは、自信になるからです。その自信は、愛を受ける側から与える側になるからです。
俗に言う「愛される」とは愛を欲し愛を得るのではなく、自身が愛し愛を施すからこそ愛を感じ、愛を知り、そして自分も愛されていることを知るものです。つまりは「愛する」と「愛される」は同義語であるかのようなもので、愛することを心身から感じてはじめて、人は愛されていることに気がつくのです。
受け身の時には、実は受けている愛も優しさも気がつかないものです。そして足るを知らずに感謝を忘れていれば、ますます枯渇していくものです。母となり、与える喜びを知るとき、人は生きながらにして生まれ変わる事が可能なのです。
しかし、人間とは、簡単には変われないものです。恐怖心、怠慢、想像力の欠如、自分への信頼の低さなどが理由と言ってもよいでしょう。だからこそ、辛いとき、苦しいとき、自分自身をも素直に受け入れて、深部にある本当の欲求を解放してあげて欲しいと思います。
その練習を繰り返し、感謝をもって乗り越えることができたとき、自分を取り巻いている世界はまったく違って見えるはずです。過去や未来でさえも違って見えるはず。すべては、自分の感情の使い方です。感情という、じゃじゃ馬を、どうやって乗りこなすかです。
問題や困難のないことを「幸福」などと呼ぶ概念が現代人には蔓延ってしまっているようですが、困難の無い人生なんて意味が無い。生きる意味がないのと同じです。精神的な困難が大きい人は、それだけの力を持っているということを知り、自分自身を信じて厳しく鞭を入れることが必要になることもあるのです。
またあえて言うならば、他者や自分以外の自然や世界などにでも、それらを責めてしまったり、異質な思考や世界観などを排除ししてしまったりしてしまうということは、単純にそのものたちへの理解不足であり、つまりは自分の能力が不足しているために自分以外が理解や認知できないだけのことなのです。逆に自分を責めるということは、つまりは自分の本当の心や想いや希望、また、自分がなんのために生まれてきたのかという目的などを理解してあげられていないということに等しくもあるのかもしれません。
自分自身の人生。他者を責めるということは自分自身を責めることと同じです。決して人や事物のせいにせず、今あるものに感謝して生きることは、自分自身を認めてあげる唯一のことでもあるのです。
—— 厄年のことを主体として書こうと思ったのですが、直接の厄年に関する内容が一番少なくなってしまったかもしれませんが、全体として「厄とはなにか」という内容の概要としてまとめさせていただきました。前述いたしましたが、このような内容はお話しするお相手でも表現は変わりますし、言葉選びや内容だけでなく、必要があればもっと深く見えない世界のお話までをもお話しする場合もございます。
神社とお寺の役割と管轄の違いや、そもそも神社やお寺とはなぜそこに在るのか、日本や神道の観念における神様とはなんなのか、なぜ人は生まれ生きるのかなど、話し出したらキリが無いですが、宇宙の摂理として、人間もその中に在る仕組みの中で成り立っているのは確かですので、周期などもあり、現代人的にもまだ関係性のありそうな、今回は厄年関連の話のつもりです。
なんていうか空蝉として生きる上では、本当にすべては心ですから。真心は祈りですし、この世界を創るのは生きた真心なのだと思っています。
20150208(20180912再編)
