アートの摂理

—— 人は宇宙に既にあるものしか創ることが出来ない

創作をしていてですね。そのことを常々、思い感じることがあります。

もちろんこれはあくまでも私個人の感覚であり思考であって、無論これも正しいか間違っているかさえも、私自身はおろか誰にもわからないことではあります。

しかし、私はいつ頃からか常にそう思って創作を続けています。そしてこれが私の創作に対する真摯な基本概念とも言えます。

他人に言われてはじめてわかることも多いですが、私の口癖のようなものの中に「これ正しいよね?」「うん、正しい!」という言葉があるんです。

きっと皆、出会う友人等とは共通の感覚がある場合があるものだと思いますが、私がこれ正しいよね?と尋ねると「うん、正しい!」と対話をしてくれる人に、人生で数人出会っています。

そうして一度、その話題になったことがあって「その“正しい”というのはどういうことなの?」と質問されたことがあります。

そして私が答えたのは、

「この創作物の形や色や仕組みが、この世界の摂理に合っているかどうか」
「このモノは、この宇宙に存在してよいかどうか」
「コレを作ることは創造の原理を誤って利用していないかどうか」

そして、それをその人は理解してくれました。

いつからかそういう感覚があります。もしかしたら最初から。

たとえば大きなキャンバスに描いている時は、何度もキャンバスから遠のいて確認しながら描いていきますよね。そういう時に私の場合は「正しいかな?」「うん、正しいよ!」と、独り言でなんども心で呟いています。

そうして例えば、私が何処かにある宇宙の全体像を俯瞰して想像して描いた一枚の絵があるとします。

それはきっと誰が見てもそんなもの想像の産物としての空想画として捉えますよね。ましてやそれがそもそも宇宙図に見えるかどうかもわかりません。

しかし、“もしも”って、私は思うのです。

この画の宇宙は、あながち既に遠い昔から本当に存在しているかもしれないと。

もしくはこうも思うんです。

それを描いた瞬間から、どこかにこの宇宙が生まれたとも。

ものづくりをしていて、感覚的な話ですが、あるルールというか範囲というか、現代の人間が「真理」や「現実」と思い込んでいる「世界」に、なにかの意図や、またはどうしてもある一定の範囲の中での制限のようなものを感じてきました。

その謂わば「法」に無意識に添いながら、「美」などの感覚は勿論のこと、なぜか「正しくない」や、どこか「不均衡」などとどうしても捉えてしまう「違和感」のような感覚もあり。

例えば、北半球と南半球で渦の巻き方が対称であるように、そこに「摂理」をやはり感じるのですよね。

そして物理学者の道はいつも宇宙と神に辿り着く傾向にあると思うのですが、こんな話もいったいどこまで広がるかはわかりませんが、そんな道でも、なんかしっくりこない感覚が昔から私はあるのです。

なにかというと、私たちの大半が思い込んでいる「世界」という認識が、ものを作る、ものを生み出す、などの意識とは、真逆とまでは言わなくとも、なにかかけ離れているような感覚があります。

ものを作るということを通して、これまで言葉では上手く表現することのなかった多くのイメージや感覚などがあります。それらをきっと全部とは到底無理ですが、少しだけでも話してみようかなと思ってはいるのですが、やはりそう上手くは筆が運ばないものです。

そりゃあそうですよね。感覚のおはなしなのですから。この世、つまりは創造の仕組みとも呼べるのかもしれない、つまりは『アートの摂理』のような話なのでしょうから。

20151111 5:15 / 20170603 3:51


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