《鳥の目と鯨の歌》というタイトルの補足説明として

鳥の目と鯨の歌

高く空を飛ぶ鳥の視点から見えるであろうまるい地平

この星が球体だと最初に気がついたのは きっと鳥かもしれない

海を泳ぐ鯨はその星で最も大きな動物

むかし映画で見たシーン

親子の鯨が大海原の海面を歩く

無邪気な幼い子供とやさしく見守る母親

そこに大きなシャチが現れて子供を捕食した

そして海の他になにもない大きな星の水面に

親鯨はただひとり

しばらくの間 立ち止まるように その場所に留まっていたけれど

ただまた泳いでいった

大きな大きな海があって

そこに鯨はまたひとりになった

海水がしょっぱいのは鯨の涙だからかもしれない

映画をみたぼくの感想だった

鯨は歌うという

天高くひとり飛ぶ鳥は鯨の歌が聴こえているだろうか

海をゆく鯨には鳥の目に見える世界を思い描くことはあるだろうか

ぼくは生きていて

まるでそんなふうに

とても遠くに感じることがある

思い出せないことや

思い出せるのに知らないことや

知っているのに忘れていることも

空に浮かんだ月をみつけると

ああそうだったいまはここにいるんだって

そんなふうに思うんだ

いまは確かにぼくはここにいて

だけど本当はずいぶん遠くに思えることがあるんだ

だけどたまに重なる時を感じて

とてもそばにいて繋がるような音が聞こえることがある

鳥は大空を泳ぎ 鯨は大きく深く海を飛ぶ

かなであうこの世界に歌は響いてる

はるかにとおく

はるかちかくに

20211112 14:53

上記の『鳥の目と鯨の歌』という詩作短文を掲載しました。今回は少しだけその説明的な補足というか、まさに蛇足です。

《鳥の目と鯨の歌》というタイトル自体と内容はまったく無関係ではあるのですが、なんとなく叙情的というか心情的なテーマとして思いがあって、それをタイトルとしてみました。

なぜか覚えているとか、反対にどうしても思い出せないだとか、どうして「記憶」とは、そういうふうに『曖昧』なのか、届きたくても届かない記憶のような、それでも記憶はずっとあるものなんですよね。

鳥が鯨の視点を慮ることや、その逆にしても、そんなことがあるかどうかは計り知れませんが、それこそ鳥が深海の生物を捕食することもなければ、その存在さえも知ることはないことでしょう。

しかし、もしかしたらなにかしらで、本人も気がつくことはないけれど関わったり、重なったり、共通のなにかの意思などがあったりと、この世界ではそういうことが確かにあると思えます。

このパズルの画像は、このカテゴリーのテーマイメージとして作成しました。この画像をただ見ただけで理解していただける方も多いとは思いますが、ひとつのピースの空いた穴が鯨だとしたなら、外れているひとつのピースが鳥です。

両者は直接交わってはいないものの、高く飛ぶ鳥の映す影が海を泳ぐ鯨に重なっているという画像です。そしてそのピースは同じ形で、まさに欠けた穴を埋めるものなんです。

きっとただ一秒にも満たない一瞬だけ、重なるような「時」が、この世界にはあるのだと思えるんですよね。

そして、このジグソーパズルのように、記憶とは確かに存在する。それは「記憶」と表すこともできますが、それを「時間」だったり「思い出」だったり「人生」や「すべての出来事」などとも言い換えることができる。

まだピースは見つかっていないけれど、いつか手にするピースの穴だけはすでに存在していたり、またはその見つからなかったピースが、遠い過去や、または遥か未来に訪れるものかもしれず、またそのピースは自分だけとは限らない。

遠いどこかの過去や未来や同時に、見知らぬ他者がそのピースを手にしている可能性もあって、もっと言えば、その他者に見える者こそが、実はもうひとりの自分だったり。そういう世界に私は思えるのです。

まるで色もヒントも形もないパズルのような人生が、きっとこの世界には在る。だけど、そのひとつひとつのピース自体では、見えることのない絵が、本当はちゃんと在るんだと思えるんです。

と、コンセプトのような話的には、こんな話なんですが、しかし!これから記していくのは、別になんでもない誰も知らない一人の人間の記憶の欠片ですので、なにも面白くなどないことでしょう!と、あらかじめここで宣言しておこうと思います。

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